なぜ小谷城は堅固な山城だったのか― 浅井氏の興亡と北近江の立地から読み解く ―

odani castle map
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小谷城は滋賀県長浜市にある堅固な山城です。
北近江の浅井氏の本拠であり、織田信長も攻略に概ね三年かかっています。
なぜ小谷城は堅固な山城といわれるのか。
本記事では、浅井氏の歴史と小谷城の立地から、その理由を見ていきます。


【浅井氏について】
浅井氏は元々は近江守護の京極氏の家臣でした。
しかし応仁の乱以降は内紛等によりその力は衰退し、北近江では国人であった初代の浅井亮政が飛躍する状況になりました。
北近江で勢力を広げた浅井氏は南近江の六角氏と敵対しますが、1553年ごろには二代目の浅井久政は六角氏に従属させられます。
三代目の浅井長政がクーデターにより当主になると、1560年に彦根であった野良田合戦で六角氏に勝利し北近江での地位を確保します。
一説にはクーデターで父の浅井久政は琵琶湖の孤島、竹生島に幽閉されたとされています。

tikubushima shrine

※竹生島神社


1560年代には織田信長が美濃攻略や足利義昭の上洛のため、交通の要所である北近江の浅井氏と婚姻同盟を結びます。
この時、織田信長の妹の市が浅井長政に嫁いでいます。
1570年には織田信長が朝倉攻めをしますが、浅井は朝倉と長年の同盟もあり織田を裏切ります。(金ヶ崎の戦い)
その後姉川の戦いで織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利し、織田信長の北近江での影響力が増します。
小谷城は堅固な山城なため、力攻めせず定期的に織田信長は城下を焼くなどして浅井氏の体力を奪いました。
1573年、織田信長は小谷城を包囲し、援軍に来た朝倉氏を粉砕。
勢いに乗って朝倉本拠の越前まで攻め寄せて、先に朝倉氏を滅ぼします。
その後、越前から返す刀で包囲していた小谷城は攻められ浅井氏は滅亡します。

oiti azai sanshimai

※小谷城陥落時のお市の方と浅井三姉妹像(道の駅 浅井三姉妹の郷)

【小谷城の立地】
小谷城は浅井三代にわたり本拠となった標高495mの山城です。
現在だと琵琶湖東岸から5kmほど東に位置しています。
琵琶湖東部から南部は外縁部の山脈以外は平地が多いです。
平地の中にところどころ独立した小山が点在しており、小谷城もその一つに築かれています。
北陸と畿内を繋ぐ北國街道と中山道が交差する陸路の要所でもあり、琵琶湖を利用した海運の要所でもありました。

view from odani castle

※小谷城から見た南西方向(奥の琵琶湖と手前の平野部の間には北國街道が通る)

特に畿内と他の地域との境目となり、隘路(あいろ)になるためこの地域を抑えることが大きなアドバンテージになります。

・壬申の乱
天皇の後継者争いで皇太子の大友皇子と叔父の大海人皇子が戦う。反乱側の大海人皇子が尾張・美濃で兵力を集め、近江と美濃の境目にある不破関(ふわのせき)を突破し勝利。天武天皇となる。

・賤ヶ岳の戦い
織田家の後継者争いで畿内を支配していた羽柴秀吉と北陸を支配していた柴田勝家の戦い。兵力で勝る羽柴秀吉に対し、柴田勝家は近江と越前の境目にある賤ヶ岳で対峙し持久戦になる。同時期に美濃や伊勢でも柴田勝家に与する勢力が蜂起し、秀吉は多方面での戦闘を余儀なくされる。秀吉が美濃へ出兵し、近江の兵力が減ったタイミングが好機と捉え柴田勝家は攻撃するが秀吉が驚異的な速さで戦場に戻ってきたこと(美濃大返し)により羽柴軍が大勝する。

・関ヶ原の戦い
天下人を争う戦い。東軍率いる徳川家康と西軍率いる石田三成が近江と美濃の境目である関ヶ原で衝突する。東軍は主力の徳川秀忠が真田の妨害により間に合わず、西軍は総大将の毛利輝元が出陣しない・西国無双の立花宗茂が大津城で足止めされるなど発生。お互い万全な状態での戦いではないが調略が光った東軍の勝利。

このように北近江は歴史を通して重要な地点でした。
そしてそれは当時の織田信長が上洛する際にどうしても押さえておかなければならない地点でもありました。
織田信長はただ一度上洛すればよいのではなく、上洛後も京都の防衛を行えるようにする必要があります。
その際は本国の美濃から京都への導線を確実に確保する必要があります。
兵力は相応に保有していたため、織田信長は近江にさえ入ることができれば南近江に反乱勢力がいたとしても対処できたでしょう。
しかし北近江については隘路である関ヶ原等を封鎖されると美濃と京都の移動を非常に阻害します。
北近江の大切さから半国しか保有していない浅井氏を重要視したのはこのためだと考えられます。
非常に優れた立地なことがよくわかります。

shizugatake shiga

※画面右から賤ヶ岳が続く(滋賀県長浜市木之本町 県道514号)

【まとめ】
今回は浅井氏の概略と小谷城周辺の重要性を見ていきました。
琵琶湖は日本一の湖で近畿の水がめでもあります。
京に近く陸路の連結点であり内陸の水運も盛んです。
少なくとも当時は非常に魅力的な立地だったでしょう。
本文で触れた立地や歴史を踏まえることで、実際に小谷城を歩いた際の印象は大きく変わります。
実踏については、別の記事であらためてまとめる予定です。

— カメビギ

※小谷城周辺の地図です。


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