小谷城を歩いて理解する ― 夏の登城で見えた浅井氏の現実

view from odani
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小谷城は滋賀県長浜市にある浅井氏の本拠だった山城です。
前回は浅井氏と北近江について詳細に確認しました。
今回は夏の時期に、小谷城をほぼ一日かけて巡りました。
木々が生い茂る山中を進む登城で、見通しや体力面の厳しさも含めて体感することができました。
ゆったり周ったため約4時間の長丁場となりました。

odani castle map
odani castle map

※小谷城のマップ

【麓~金吾丸】
小谷城は標高495mと山城としても標高が高く感じます。
しかし内陸国の滋賀ではもともと標高が高く、麓から約150mほどの高さになります。
今回は麓の小谷城戦国歴史資料館のある南側から追手道を通って反時計回りに一周しました。

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※追手道

実際に山に登るためには柵があり、動物の侵入を防いでいるようです。

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※山の入り口

写真で伝わりにくいかもしれませんが、かなりの急斜面となっています。
夏場は汗が止まらず、登り始めから体力を消耗しました。
そして山頂にあたる「大嶽城(小谷城の出城)まで2600m」の標識を見て気合を入れました。

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※急斜面

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※看板

登っていると真柄峠という場所にでました。
1525年に六角氏への援軍として朝倉氏の真柄備中守が守備したことから名前が付いたようです。
戦国時代で長期に渡って同盟関係を結ぶ浅井・朝倉もこの時期は敵対関係にあったようです。
この先も人名が地名になっている場所がでます。

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※間柄峠

続いて金吾丸です。こちらも1525年に朝倉宗滴が布陣したことから金吾丸となります。
気になって調べてみたところ、朝倉宗滴は太郎左衛門尉を称していたことから、その中国の官職が「執金吾」だったことに由来します。
「執金吾」は前漢にできた官職ですが1500年も後に、日本で地名の由来になるのは驚きですね。
ちなみに金吾は金色の霊鳥とのことで、朝倉宗滴の越前では金吾谷という地名もあるそうです。
金吾丸は当然今でいう小谷城内にありますから、当時は浅井亮政と朝倉宗滴が目と鼻の先で対峙していたと思います。
一説にはこの時、浅井氏と六角氏の仲介を朝倉氏がしたこともきっかけで最終的に浅井・朝倉の友好関係が進んでいったそうです。

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※金吾丸

【番所~本丸】
番所を通り抜けるといよいよ主郭部に入ります。この主郭部が非常に長く防衛に向いています。
まずは御茶屋です。御茶屋は小規模な御殿や庭が存在したそうです。
今は木が沢山茂っており、遠くが見渡しにくくなっていました。
夏場のため葉が密集しており、当時の見通しを想像しにくい反面、季節による城の印象の違いを感じました。

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※御茶屋

続いて登ると御馬屋です。ここには井戸があり籠城戦や日常使いでも重要だったと考えられます。現在は草が多いためフラットな空間だとわかります。

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※御馬屋

その次に桜馬場とその横にある首据石です。
桜馬場は見晴らしが良く建物があったとされていますが、今は浅井氏と家臣団の供養塔があります。
また首据石は浅井亮政時代に六角氏に内通した家臣の首をさらしたことが由来です。
首据石のすぐ後には黒鉄門があり、鉄を打ち付けた扉があったとされています。
当時は木製で燃えやすい構造が多かったと考えられるだけに、重要な場所では耐火対策が意識されていたと思われます。

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※首据石

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※浅井氏と家臣団の供養塔

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※黒鉄門

黒鉄門を抜けると大広間になります。大広間は南北85m東西35mの小谷城最大の曲輪です。
大広間には礎石と思われる石が多くみられ、建物が複数建っていたと感じることができます。
この先に本丸があり、南面に対し石垣が積まれています。
石垣は高さがあり、その上には建物があったとされています。
浅井長政が最後までここで抵抗したと考えられます。

※本丸

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※本丸石垣

【大堀切~山王丸】
本丸から進むと大堀切があり、高低差が大きくなっています。
大堀切の上から見降ろすと高さを感じられ、尾根伝いの進軍を物理的に遮断する構造であることがよくわかります。
元々尾根を使って曲輪をつくっているため、通行可能な幅が狭いですが、
さらにこのような大きな堀切などがあると防衛に非常に有効に感じます。

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※大堀切

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※大堀切上からの視点

進んだ先は中丸です。南北三段になっており、最上段に刀洗池があります。
先ほどの本丸とは人工的に作った大堀切で区切られており石垣が使用されています。

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※中丸

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※刀洗池

刀洗池を抜けると京極丸があります。
京極氏の屋敷があったとされており、大広間に次ぐ大きな曲輪です。
羽柴秀吉が京極丸を攻め落としたことにより、この先の小丸にいた浅井久政と本丸にいた浅井長政が分断されます。
この際羽柴秀吉は水の手谷と呼ばれるルートから登ったようです。
非常に急斜面で過酷なルートですが、京極丸を占拠したことが浅井氏滅亡のとどめの一撃になったと思われます。

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※京極丸

京極丸の先には小丸があります。
小丸は浅井久政が引退後に居住していた場所とされています。
先ほどの京極丸を占拠した秀吉はそのまま小丸を攻め、浅井久政はここに自刃します。

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※小丸

小丸から先は山王丸になります。
山王丸は標高約400mで小谷城の詰めの丸になります。
最頂部に山王権現が祀られていました。
大石垣があり小谷城の特徴の一つとなっています。

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※山王丸

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※大石垣

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※見晴らし

ここまでが小谷城になります。

【六坊~大嶽城】
この先は六坊があります。
浅井久政の時代に両国内にあった有力寺院の出張所がおかれていました。

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※六坊

さらに登り大嶽城に向かいます。
途中岩尾という場所では開けた展望が見えます。
今まで通ってきた小谷城がしっかり見えるため、大嶽城は重要な場所とわかります。

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※岩尾

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※小谷城を見下ろす

大嶽城は最も高い位置にあります。
小谷城より高い位置にあるため防衛上重要です。
そのため盟友の朝倉氏が援軍で守備していましたが奇襲で織田勢に攻略されました。

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ooduku castle

※大嶽城

【福寿丸~大手門橋】
西側をくだり福寿丸を抜けます。
1572年に朝倉義景が援軍に来た際に築かれたとされています。
こちらは土塁を高く築く作りのため、浅井氏の石垣づくりとの違いを感じられます。

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※福寿丸

福寿丸から下り、最後の曲輪は山崎丸です。
小谷城落城の直前に朝倉義景が布陣し築かれました。
山下の虎御前山城の織田信長と対峙したそうです。

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※山崎丸

そして一周しました。大手門橋があります。
奥には小谷城戦国歴史博物館があります。

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※大手門橋

【歩いてみて感じた感想】
今回は夏の登城だったため体力面の消耗が大きく、
戦国時代にこの山中で兵が展開・移動した負荷を、より現実的に感じることができました。
今回歩いたルートを俯瞰すると、小谷城が「巨大な城」ではなく、兵力に合わせて選び取られた防衛線の集合体であったことが実感できます。
歴史の流れと現地での体験を合わせると以下のように感じます。

①小谷城の実情
登る前は、小谷城は山全体だと思っていました。
しかし実際には東側の尾根に作られており、山頂から西側は別のエリアになっています。
ここに浅井氏の現実が見えます。
城の防衛において、城の面積が多ければよいというものではありません。
そのためには防衛する城兵の数が必要になります。
防衛線が長くなれば単位あたりの兵士が少なくなり、攻城側に一点突破される原因になります。
そのため城のサイズは城兵数との兼ね合いを大切にする必要があります。
元々は小谷城で5000人程度とされています。
ただ小谷城では数年に渡る織田氏との戦闘や調略により、城兵が少なくなっていたことでしょう。
山全体を十分守るほどの城兵はいなかったのではないかと思います。

②浅井長政の次善の策
勿論可能であれば浅井長政は小谷城全体を守りたかったでしょう。
特にさらに上部にある大嶽城は小谷城全体を見渡せるうえに、山王丸につながっています。
ここが敵に取られると小谷城が丸見えで、戦線が2方向に増えます。
非常に不利になるため何としても避けたかったはずです。
かといって防衛兵力もいない、そのため浅井長政が取った手は同盟の朝倉義景へ派兵要請です。
そのため最も高い位置にある大嶽城から西は朝倉義景が防衛しています。
小谷城の防衛という観点では相当な効果があったと思われます。

③頼みの綱の朝倉の壊滅
山頂から西側の守りを朝倉に頼んでいましたが、朝倉側からみたらどうだったのでしょうか?
金ヶ崎の戦いで危機を浅井に救ってもらった恩はあるでしょう。
しかし前年の1572年、浅井長政が織田信長の圧力が強まり危機に陥った時には朝倉へ虚報をながし、朝倉軍を小谷へ援軍に出させています。
自分の身を守るために同盟国に偽の情報を流し、出兵させる姿は信用できなく映ったことでしょう。
また、朝倉の立地からすると北近江は本国越前と織田領地との境目に位置し、緩衝地帯としての重要性は高かったです。
しかし仮に北近江を失っても越前との国境地帯(賤ヶ岳など)に防衛線を設定すれば山が障壁となり侵入を防ぐことは考えられました。
越前は良く統治されており、信長包囲網が敷かれている状態では長期戦は朝倉氏にとって優位に働きます。
そのため朝倉軍だけでなく、朝倉義景本人もいざとなれば撤退し大切な兵力の温存を優先することは考えていたはずです。
結果的には風雨の織田軍の奇襲で要所の大嶽城は陥落し、そのことを知った朝倉軍は北近江から撤退を開始します。
そして織田信長が撤退中の朝倉軍を攻撃し、事実上の壊滅をします。
これにより浅井氏は最悪の事態に陥ったはずです。

④羽柴秀吉のとどめの一撃
織田軍は朝倉軍を追撃し、越前を平定します。
この時の浅井軍は絶望的な状況だったでしょう。
朝倉軍の撤退だけでも小谷城が著しく厳しい状況になるのに、その朝倉氏が滅んでしまったのです。
これで完全に援軍の目はなくなりました。
現に朝倉軍を追討中の織田軍に対して浅井氏は何も対応できていません。
この時にはほとんど浅井氏の軍事力は小谷城の防衛以外なにもできない状況だったのでしょう。
そして朝倉を滅ぼした織田軍が返ってきて小谷城を攻めました。
すでに山下の番所方向と山上の山王丸方向の2方向に兵力を割かねばならなかったはずです。
そこに羽柴秀吉の中央部の京極丸への攻撃が決まりました。
こうなると兵力はさらに分散され、各個撃破となります。
そうして羽柴秀吉のとどめの一撃で勝負ありとなったと思われます。
戦後は羽柴秀吉は恩賞としてこの地域を支配し、小谷城から琵琶湖傍の長浜城に本拠を移しています。

⑤小谷城が堅城な理由と防衛手段
小谷城の防衛は尾根に延びた一本道を活かすことを想定しています。
各曲輪にいる兵を、戦闘が発生する先端の曲輪の支援にあてていたと思われます。
戦力的には織田に遠く及ばない以上、現実的には一本道になっている狭い曲輪と高低差を活かして機動的防衛が唯一の勝ち筋と思います。
織田は大軍である以上、長期戦はやはり兵站面の負担があり、信長包囲網の動きによっては各地に戦力分散しなければならない可能性がありました。
しかし、おそらくは大嶽城を占拠した織田軍は上方から小谷城の特徴をよく知り、羽柴秀吉の京極丸占拠という解決方法を実行します。
まるで詰将棋のように一手一手浅井氏を追い詰めていくように感じました。

【最後に】
小谷城は非常に大きく、良い立地にあり、防衛に富んだ曲輪が多くみられます。
登るだけでも大変な城なため、当時は非常に堅城だったことでしょう。
その時代を生きる人たちの工夫が沢山垣間見られる素敵な場所です。
琵琶湖に思いをはせながら周ってみてはいかがでしょうか。
夏場の小谷城は想像以上に体力を使うため、十分な水分と時間の余裕を持って登城することをおすすめします。

— カメビギ

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