清須城──信長・秀吉・家康 三英傑躍進の城を歩く

kisyosu castle view


清須城は愛知県清須市にあった城です。
戦国から江戸初期にかけて、歴史の転換点に何度も登場しました
ここでは、過去に存在した城を「清須城」、現在の再建天守を「清洲城」と表記します。
※清須市HPを参考
現地の様子を含め、清須城の歴史を静かにたどっていきます。

【清須城の歴史】
①織田信長が清須城を本拠にするまで
清須城の起源は、1405年に尾張守護・斯波氏が築いた守護所にさかのぼります。
1478年には守護所が清州に移転し、長く斯波氏の居城となりました。
しかし16世紀半ば、斯波氏は守護としての力を失い、 守護代・織田信友の傀儡となっていました。
1554年、織田信友が守護の斯波義統を殺害する事件が発生します。
嫡男の斯波義銀は命からがら、信友と対立する織田弾正忠家の織田信長のもとへ逃れます。
信長は逆臣・信友を討ち、清須城を本拠としました。

kiyosu castle

※現在の清洲城

②桶狭間と清州同盟──尾張西部から熱田へ向かう動線
1560年には桶狭間の戦いが発生します。
圧倒的に有利な今川氏に対して、織田信長は清須城から出陣を決断します。
直前まで城外での合戦の意思を見せていなかったことから、情報統制のためギリギリまで我慢していたと思われます。
尾張西部の低地から熱田へ向かう街道を進み、熱田神宮で戦勝祈願を行いました。
熱田神宮には織田信長から戦勝の礼として戦後寄進された信長塀が今も残ります。

nobunaga wall in atsuta jingu

※熱田神宮の信長塀

桶狭間の戦いの後、隣国三河では徳川家康が今川氏から独立します。
美濃攻略を進めたい織田信長と領国統治・対今川を進めたい徳川家康の利益は一致しました。
こうしてお互いの後背を守る同盟、いわゆる「清須同盟」は1562年に清須城に徳川家康が訪れて締結されたといわれています。
この結果、織田信長は畿内の大部分を抑え、徳川家康は今川氏や武田氏という強敵相手に結果的に勝つことができました。

③清須会議──本能寺からわずか数週間
本能寺の変で織田信長は横死します。
通常だと既に家督を譲られている織田信忠が次の当主ですが、明智光秀は非常に優秀でした。
本能寺の後は二条御所を攻撃し、織田信忠まで死亡してしまいます。
これにより織田家中は大混乱に陥ります。
明智光秀自体は羽柴秀吉が山崎の戦いで破り、近江坂本を目指す過程で落ち武者狩りで討たれます。
その後、清須城で行われた織田家の後継者を決める会議が「清須会議」です。
本能寺の変から4週間に満たず、山崎の戦いからわずか2週間後に行われています。

重臣の滝川一益は北条氏と神流川の戦いで敗れ、清須会議までに戻ることができませんでした。
清須会議に出席した重臣は、柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興の4名で、柴田勝家以外の3人は直前の山崎の戦いに参戦しています。
結果的に織田信忠の嫡男の三法師がわずか3歳で家督を相続することになり、織田家の領国も織田信雄・織田信孝を含めてそれぞれ家臣によって分割されることになりました。
さらに旧武田領についても織田家で維持できなくなっていたことから徳川家康に切り取り許可を与えています。
清須会議は、この後の羽柴秀吉、そして徳川家康の天下人への道を大きく切り開きました。

④日本の中心という要所──尾張西端の戦略性
以前の小谷城の記事では、関ヶ原近辺は日本の中心に位置し、戦略上重要な場所だと紹介しました。
関ヶ原の西側は近江、そして東側は尾張・美濃が該当します。
清須城は尾張の西端に位置し、美濃・近江・三河へ向かう交通の結節点でした。
この後も重要な合戦に影響します。

※現在の清洲城の位置

小牧・長久手の戦いでは、清須城が織田信雄の居城であったため徳川家康が何度も訪れています。
有名な長久手の戦いも清須城から小牧山城に徳川家康が移動したことで発生しています。
関ヶ原の戦いにおいて、概ね尾張と美濃が東軍と西軍の境目になっていました。
そのため尾張の清須城城主であった福島正則は積極的に美濃攻略を担当しました。
当時、徳川家康は会津征伐から江戸に引き返しており、西への進攻ルートを開く必要がありました。
その先方として福島正則は木曽川・長良川・揖斐川などの大河川を超えて美濃西部から岐阜城攻略まで進みます。
最終的には関ヶ原の戦いでも福島正則は活躍し、毛利氏の後に広島城へ50万石で入城します。
※広島城の記事についてはこちら
清須城は、戦国の大事件に何度も関わった“要衝の城”でした。

⑤清須越し──城下町ごと移転した大事業
1610年、徳川家康の意向により、尾張の中心は清須から名古屋へ移されます。 理由としては、

  • 清須は低地で地盤が弱い
  • 城郭規模が小さい
  • 名古屋台地は堅固で、旧那古屋城跡を利用できる などが挙げられます。

このとき、清須の町は 城下町ごと 名古屋へ移転 しました。 これが「清須越し」です。

※現在の清洲城から名古屋城の距離

名古屋の町は京都のような碁盤目状に整備され、 1614年の大坂冬の陣では名古屋城から徳川軍が出陣します。
こうして清須城は、その役割を終えました。

【現在の清洲城】
現在の清洲城は桜の名所の五条川沿いにある再建天守です。
五条川には赤い大手橋が架かっており清須城の特徴になっています。
すぐ横を東海道新幹線が通っており、名古屋と京都の間を通る場合は見ることができます。
外からは見えませんが門をくぐると中には枯山水があります。

from kiyosu castle view

※清洲城天守からの景色(手前が枯山水、正面が五条川と大手橋、左奥がJR東海)


現在の天守は1989年(平成元年)に建てられたもので、当時の清須城の正確な位置が不明なため、現在の天守は本来の位置とは異なる可能性があります。
内部は4階建てで、歴史展示や刀剣・瓦鯱などが並びます。
信長塀のレプリカもあるため、熱田神宮の本物と見比べてみてはいかがでしょうか。

nobunaga wall in kisyosu castle

※清須城のレプリカの信長塀

【最後に】
清須城は戦国時代を通して、 信長・秀吉・家康という三人の天下人の転換点に立ち会いました。
そして地形の制約から名古屋台地へと移り、静かに役割を終えました。
名古屋からのアクセスも良く、五条川を眺めながら歩くと戦国の気配が今もわずかに残っています。

ーカメビギ

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