福知山城は京都府福知山市にある平山城で、明智光秀によって築かれました。
福知山は周囲を山に囲まれた盆地で、由良川のほとりに位置します。
この土地の歴史的背景と現地で感じた福智山城の特徴を紹介します。
【丹波とは】
福知山という地名は、明智光秀が命名したとされています。
光秀は1575〜1579年にかけて丹波平定に取り組み、1580年には二十九万石を与えられました。 その統治の仕上げとして築かれたのが福智山城です。
丹波平定の5年間について、金子拓(2019).『信長家臣明智光秀』.平凡社新書. を参考に整理します。
①1575年の丹波国と織田家
丹波国は京都のある山城国の北西にあり、山陰道でつながっている隣国です。
国衆が強く、守護の細川氏も力を失っていたため、1575年時点では一国を治めるような統一的勢力はいなかったとされています。
一方で国衆の中でも親織田派と反織田派(旧幕府派)がおり、京都の隣にもかかわらず織田方の勢力圏としては確定していませんでした。
1573年に織田信長は足利義昭を追放、同時期に抵抗勢力であった浅井氏・朝倉氏も滅ぼしています。
そして1575年5月、長篠の戦いで宿敵の武田家に致命的な一撃を与えました。
武田家という脅威が後退したことで、織田家は京都周辺の安定化=丹波平定に集中できるようになりました。
周辺に織田家を脅かす存在は石山本願寺が残っていましたが、
石山本願寺も防衛に特化している場所のため積極的な攻勢は難しいため脅威度は限定的でした。
翌6月に明智光秀に丹波平定の指示がでました。
またほぼ同時期の7月には信長から惟任の名字と日向守の官途名乗りを与えられています。
②明智光秀の苦戦
明智光秀は従わない国衆を排除することで丹波平定を目指していましたが、過程としては非常に苦労をしています。
最初は守護代の内藤氏や宇津氏が従わないために討伐を目的にしていました。
しかし有力国衆の荻野直正(赤井氏からの養子)が竹田城(隣国の但馬国)攻めを行ったため、但馬国の山名氏からの援軍要請をうけ明智光秀は丹波国の西にある黒井城(兵庫県丹波市)を攻撃します。
竹田城攻めをしていた荻野直正は黒井城に戻り籠城していましたが、周囲に付城を築き包囲状態に持ち込みました。
しかし黒井城と京都の間にある八上城の波多野秀治が離反したことで後方が遮断され明智光秀は敗走します。
この結果多くの国衆の離反を生んでしまいます。
その後、荻野氏・赤井氏は一時期帰順しますが最終的にはふたたび敵対します。
明智光秀は拠点の亀山城築城し、丹波平定は長期化します。
③丹波平定
1576年には毛利氏に頼った足利義昭による信長包囲網の呼びかけなどで敵と味方が激しく分かれる状況にもなり、明智光秀は丹波にかかりっぱなしではいられなくなります。
この5年間で明智光秀は非常に働いており、越前や石山の一向衆対応や根来攻め、松永久秀や荒木村重の反乱対応のような軍事的活動や筒井順慶の大和管轄を伝えるなどの近畿での管理者としての仕事も行っています。
特に1576年の天王寺の戦いでは不休で戦い続けたため、その後過労で倒れています。
それでもなんとか敵対する各勢力をひとつひとつ攻略し、1579年10月に丹波・丹後の平定を信長に報告しています。

※福智山城写真
【福智山城】
福知山城はもともと横山城という城が元になっており、塩見氏が保有していました。
しかし丹波平定戦の末期、1579年8月に塩見氏の横山城は陥落します。
明智光秀は横山城を福知山城と改名し、初代城主となり娘婿の明智秀満(左馬助)を城代に置きました。
※その他詳細は福知山城HPを参照
福知山城は丹波国の中でも北西に位置し、丹後国との境目にあります。
南東の山城国との境目の亀岡城との距離は65kmほどです。
亀岡城からの行軍距離としても2日~3日かかる距離です。
丹波国の統治の観点からも、そして今後来る山陰側からの毛利攻めについても福知山城が必要だったのでしょう。
丹波統治と山陰方面の防衛の両面で重要な位置にありました。
※福智山城と亀山城の関係(右下は京都)
福知山城は大きな橋が印象深いです。
城の東側に架かっており昇竜橋と名付けられています。

※昇竜橋
橋の上からは綺麗に堀が見えます。

※昇竜橋からの景色
近づくとまず目に入るのが、反りのついた石垣です。
武者返し(反り)がついています。

天守は復元天守です。
注目すべきは石垣で、墓石などの転用石が多くありました。
本当に様々な石が使われています。
明智光秀の合理的な性格が伺えます。

※復元天守

※天守の石垣(様々な石が使われている)

※転用石
また、本丸の井戸としては日本一の深さの井戸、豊磐井(とよいわのい)があります。
その深さ50m!
川が近くにあるとはいえ、日常時や非常時には頼りになったと考えられます。
私が見たときは、暗くて深さがほとんどわかりませんでした。

※豊磐井(とよいわのい)
城内には先ほどの丹波平定の詳細な説明や本能寺の変の様々な説の展示がありました。
特に本能寺の変の動機は主に以下の3種類にわけられ、全部で50もの説が展示されていました。
①光秀単独犯説
②主犯存在説・黒幕存在説
③その他
一見の価値ありです。
そして天守からの景色では由良川が見えます。
川沿いには「明智藪」といわれる治水の跡がみられます。
由良川は流れが強く水害も多かったそうですが、明智光秀が川の流れをなだらかにするため堤防の前に藪を設けることでになったそうです。
僅か3年の統治でしたが、水害の多い地域で積極的に対策に取り組んだことは地域で今も記憶されているようです。

※明智藪(橋手前の川沿いの樹木群
【最後に】
福知山城とその周辺を歩くと、光秀の痕跡が今も町に息づいていることを実感します。
歴史は勝者によって語られると言われますが、この地では“敗者”とされる明智光秀が尊敬されています。
その土地に立たなければわからない歴史がある。
“敗者が尊敬される土地”という点は、福知山の大きな魅力です。
ぜひ現地で、光秀の息遣いを感じてみてください。
-カメビギ

