新高山城(にいたかやまじょう)は広島県三原市にある山城です。
1552年、小早川隆景が本拠とし、三原城が築かれる1567年ごろまで中心的に使用されました。
わずか15年ですが、小早川隆景の小早川氏統一を支えた重要な城でした。
ここでは、歴史背景と実際の登城ルートを合わせて紹介します。
【小早川隆景の小早川氏継承までの歴史】
小早川氏は鎌倉時代以降、安芸国に所領を得て勢力を維持していました。
途中で主家にあたる沼田小早川氏と分家の竹原小早川氏に分かれています。
そして毛利元就の兄の娘が竹原小早川氏の小早川興景に嫁いでいました。
1541年、小早川興景は以前紹介した郡山合戦で毛利元就の支援を行いますが、その後病死します。
後継者がいなかったことから、竹原小早川氏は毛利元就の三男の隆景を養子に希望したとされます。
ここに小早川隆景は竹原小早川氏の当主となります。
さらに1550年には主家格の沼田小早川氏の混乱に生じて、沼田小早川氏も継承し、小早川氏を統一しました。
以後、吉川元春と同様に毛利一門として毛利氏を支えていく毛利両川体制になります。
【新高山城とは】
1552年、小早川氏を統一した隆景は新高山城を築城し本拠にします。
新高山城は沼田川の西側に位置し、元々は対岸(沼田川東側)にあった高山城の副塁でした。
高山城は標高190mで16haの広さがありました。
新高山城は標高197.6mで20ha(東西400m×南北500m)の広さになっています。
新高山城は標高がほぼ同じですが面積が広く、60以上の郭で構成されて広大な山城になっています。
1567年に三原城を築いた際、新高山城から三原城に石垣を転用したとも伝わります。
※新高山城の位置
【新高山城を歩く】
■ 登山口〜番所跡
新高山城には登城者用の駐車場があり、そこから登山道を進みます。
駐車場の標高は約10m、本丸までの距離は約1000mでそこまでに190m近く登ります。
1000mの距離で190m登る=勾配19% の急峻な山城です。

※神社の横が登山道
最初に見えてくるのは番所跡と鐘の段との分岐です。
番所跡はこのまま正面に登っていく道の右側に複数あったとされます。

※番所横を通る道

※番所の郭
左に曲がると狭い道がつづきます。
片側は急斜面になっており、その先が鐘の段になります。

※鐘の段への道

※鐘の段

※鐘の段の小丘からの景色
■ 匡真寺跡(きょうしんじ)
番所跡を登っていくと匡真寺(きょうしんじ)と言う小早川氏の菩提寺跡があります。
大きな広場になっており、湧水池や築地塀の跡などが残っています。
1577年、隆景は父の毛利元就の七回忌と母の妙玖尼の三十三回忌をここで行ったとされます。

※匡真寺跡
■ 中の丸(二の丸)
さらに登るとほぼ山頂の中の丸(二の丸)に至ります。
そこから東西に広く作られており、西には四段の郭が配置されています。

※中の丸の西の郭
■ 本丸
中の丸から東に行くと本丸になります。
南西から本丸へ入ると土塁の桝形があります。
また石垣の跡があり、かつての名残りを感じられます。

※石垣の跡と中の丸から本丸へ続く階段(写真右)
本丸は最も広い郭になっています。
東西125mもあり、かつては櫓もあったそうです。

※本丸
■ 詰の丸
本丸より東側には詰の丸があります。
ここには石切場があったらしく、岩肌が露出しており、現在は多くの石仏があります。
最も高い位置にあたり、ここから沼田川が一望できます。

※石仏群と岩肌

※石仏

※詰の丸から沼田川への眺望
■ 釣井の段
本丸より北側に下ると釣井の段と呼ばれる郭があります。
井戸での水源の確保がされていたようで、今も石垣の一部を見ることができます。

※井戸跡(手前)と石垣(奥)
■ その他
新高山城に登っていると、登山道を手入れしている団体に会いました。
地元の方のようでしたが、このような方々のおかげで快適に過ごせていると改めてありがたく感じました。
また、急斜面なため、途中で休憩したくなった時にベンチがいくつかあり助かりました。
距離は短いですが急なため、ゆっくりマイペースで登るのがよいですね。
ゆっくり全体をまわって下山するまで約一時間半かかりました。

※新高山城のベンチ
【高山城から新高山城へ】
1552年、高山城から川向いの新高山城へ本拠が移されました。
その理由としていくつか考えてみました。
① 山城としての拡張性
新高山城は面積が広いため郭数が多く、より大規模な軍事拠点にできた。
② 石材の確保
詰の丸の石切場跡からも分かるように、築城に必要な石材が豊富だった。
③ 移転コストが低い
川を挟んだだけの移転で、城下の移動が最小限だった。
④ 小早川氏統一の象徴
沼田・竹原の両小早川氏を統一した隆景にとって、 「新しい小早川氏の出発点」 として本拠を移した。
特に、直近に反対派家臣の粛清をしてまで統一を成し遂げているので両家臣団の融和を図る象徴的な移転ではないかと考えられます。
想像ですが、元々小早川氏ではなかった、養子で入った小早川隆景だからこそ中立的に融和に心を砕いたのではないでしょうか。
【新高山城の活躍から三原城へ】
新高山城は急峻な山城で防御力にすぐれています。
水源の確保などかなり防衛を意識した城構成になっていました。
築城当時は1551年の大寧寺の変で大内義隆が無くなり、大きく中国情勢が荒れていた時期です。
大内氏の衰退は臣従していた毛利氏にも影響を与えており、北方の大国尼子氏の動きも気になっていたでしょう。
毛利氏本拠の吉田郡山城のように山城の防衛力は常に求められたと思います。
一方で、1557年には大内氏を、1566年には宿敵の尼子氏を滅ぼしたため、中国地方はほとんど毛利氏の支配下になりました。
こうして内陸での戦闘に特化した新高山城から、より内政や海上交通が大切になってきました。
1567年に三原城が沼田川河口に築かれ、新高山城の役割はバトンタッチされました。
【毛利氏の水軍と新高山城】
当時は海水が山麓まで入り、 新高山城の麓には船着き場があったと伝わります。
小早川隆景は小早川水軍を率い、 毛利氏の海戦で重要な役割を果たしました。
- 厳島の戦い
- 門司城の戦い
- 木津川口の戦い
- 四国・九州征伐
- 小田原征伐(海上封鎖・輸送)
強大な水軍力を持つ大名は少なく、 毛利氏はこれを最大限に活かしました。
新高山城は毛利水軍の原点となった城といえます。
【最後に】
今回は新高山城を実際に登り考えました。
小早川隆景がなぜここを本拠にしたのか?
どのように小早川隆景が小早川氏をまとめたのか?
黒田官兵衛(黒田如水)に「賢人」とまで称された隆景。
その人となりと工夫を、この山城を通して感じました。
ーカメビギ

