「高天神を制するものは遠州を制す」武田と徳川、両雄の命運を分けた堅城の歴史と戦略的立地を徹底考察

高天神城階段


高天神城は静岡県掛川市にある山城です。
その立地から「高天神を制するものは遠州を制する」と言われ、武田氏と徳川氏の遠江の支配に大きく影響を与えた堅城です。
高天神城の落城をもって、武田勝頼の威信は地に落ち、武田氏は滅亡に向かったとされます。
現地で高天神城に登ってきたので、今回はまずその立地と歴史を見ていきます。

【高天神城の立地】
高天神城は標高132mの鶴翁山にあり、周囲との比高(山麓からの高さ)は100mほどです。
北・東・南は急斜面となっており、周囲を効率よく見渡せることから遠江支配の要所となっています。
一方、西は標高220mの楞厳寺(りょうごんじ)山とつながっていますが、高天神城との間は鞍部(あんぶ:山の尾根のくぼんでいる所)になっています。
西から攻める場合も一度登らなければならない防御に適した構造です。
浜松からも35kmほどで、強行すれば一日程度で軍隊が移動できる距離です。

高天神城からの景色

※高天神城から南西を見る(右上は太平洋)

※高天神城と浜松城の距離

【歴史】
高天神城は明確な築城時期は不明とされています。
特に戦国時代の高天神城の支配は
今川⇒徳川⇒武田⇒徳川
と細かく変わっていきます。

①概要
・16世紀初頭 今川氏の家臣の福島氏(くしまし)が城主
・1536年 今川氏の後継者争いである花倉の乱で福島氏が没落、小笠原氏が城主になる
・1560年 桶狭間の戦いで今川義元が討たれる
・1565-1568年 徳川家康が小笠原氏助を調略
・1574年 武田勝頼が高天神城を開城させる
・1575年 長篠の戦いで武田氏が大敗
・1578年 徳川家康が高天神城奪還のため横須賀城を築城
・1579-1580年 岡部元信が城番になる
・1581年1月ごろ 岡部元信が徳川家康に降伏の意向を伝えるが、信長の意向により徳川家康は黙殺
・1581年3月 高天神城城兵が徳川陣地へ総攻撃、岡部元信以下ほとんどの城兵が戦死
※年表は掛川市HPを参考にしています

②武田勝頼の高天神城攻略
最新の研究で、武田信玄は三方ヶ原の戦いに先立ち、高天神城城主の小笠原氏助を一時的に降伏させていたが、武田軍が撤退後に小笠原氏助は徳川に再帰属していたとされています。 
※平山優(2021).『武田三代』.PHP新書 より

武田勝頼は1574年にその高天神城を下し、名声を高めます。
従来の説では、武田信玄の落とせなかった高天神城を攻略したことでその武名が上がったとされていましたが、そうではないようです。
どのような形にせよ、確かに武田勝頼は高天神城を攻略し、長篠の戦いまでは東美濃や遠江での攻勢は着実に結果を出していたようです。

武田勝頼は信玄の四男であり、本来は家督を継ぐ立場ではありませんでした。
それが義信事件で兄の義信が亡くなり、後継者になりました。
幕府に官途叙任を申し出るも貰えず、1573年に信玄まで亡くなります。
代替わり時期に、武田勝頼は自らの武名で成果を出し続け、内外への影響を持ち続けるしかなかったと考えられます。
その点、敵国の徳川から高天神城を奪取したことは内外にわかりやすい成果になりました。

③長篠の戦い後の苦境と外交努力
長篠の戦い以降、高天神城の北東にある諏訪原城が落城し、武田氏は苦境に陥っていました。
何とか東にある小山城が維持できていたため、陸路での補給が継続できていました。
徳川が小山城を攻撃した際は、武田勝頼が13000もの兵力を編成し防衛に成功しています。
一方で、西にある二俣城や東美濃の岩村城などは落城しました。
甲斐・信濃は内陸国であり、敵国との国境が広いため移動に時間がかかり全方位を守るだけの余裕がなかったことと思われます。
この時、岩村城主の秋山虎繁は城兵の助命を条件に開城しましたが、長良川でおつやの方とともに磔にされ、城兵も処刑されています。
秋山虎繁は以前に武田信玄の使者として長良川に来ていましたが、まさかそこが最期の地になるとは思ってなかったでしょう。
この時織田信長は上杉謙信に武田攻めを要請していましたが、追放された足利義昭の仲介で武田と上杉の和平が成立したため、上杉謙信は織田信長との対決姿勢に変わりました。
武田勝頼は多方面からの攻撃をなんとか耐えきることができました。

※小山城

④徳川家康の高天神城攻略と武田氏の滅亡
武田勝頼は一時北条氏と同盟しますが、上杉氏の後継者争い(御館の乱)に介入したことで同盟が破綻します。
変わって北方の上杉景勝と同盟しましたが、内戦後で上杉の国力は致命的なほど低下していました。
ここで織田・徳川・北条が同盟します。
こうして武田は三方向に敵を抱える状況になります。
高天神城は陸路と海路で補給があったとされますが、段々と陸路が難しくなり河口にある浜野浦から海路補給が中心だったとされます。
武田水軍であった岡部元信が城番をしています。
しかし徳川家康は周囲に六砦を築き、補給を封鎖しました。
兵糧攻めされる城兵に対し、織田信長は武田勝頼との和平の可能性をちらつかせることで救援を妨害しました。
最終的に武田勝頼は救援できず、高天神城は見捨てられる形になりました。
武田勝頼の無力さをアピールするため、織田信長の指示で高天神城の城兵は降伏すら許されず、餓死か徳川陣地への突撃でほとんどが戦死します。
この結果、武田勝頼の名声は地に落ち、翌年の甲州征伐では次々寝返る者が現れます。
そして武田氏は滅亡します。

家康が築いた火ヶ峰砦(六砦のひとつ)

※家康が築いた火ヶ峰砦(六砦のひとつ)

【考察】
①立地
高天神城は遠江支配に重要な位置にありました。
武田としては遠江の中心に位置し、西の二俣城と連携すれば防衛線を構築できます。
抑えておけば二俣城北の兵越峠を通過して信濃から派兵できるほか、東からは甲斐・駿河から高天神城経由で派兵できます。
浜松を北と東から囲み、武田の移動経路の自由を与える面でも重要です。
さらに高天神城では水路が使えたことから駿河の武田水軍(旧今川水軍)を利用でき、攻勢に使用した場合は浜名湖なども抑えることが考えられます。
三河と遠江を分断し、徳川を叩くには非常に良い立地になります。
一方で徳川からすると、仮に武田が弱体化していたとしても本拠の浜松城から35kmの地点に水路もある強固な敵軍事拠点があることは許せません。
また、浜松から北の二俣城も常に北から増援がくる恐れがあり、敵が自由に遠州平野(天竜川下流)に侵入できる可能性は排除しておかないといけません。
つまり、武田と徳川の争いが遠州で行われる間は、高天神城の戦略的な価値は非常に高くなります。
しかし、一方の勢力が完全に遠江を支配するとその役割は一気に失われます。
現に徳川家康は高天神城を攻略した後、城機能を戻さなかったようです。
すでに遠江平定だけでなく、次の甲州征伐が見据えられていました。

②武田勝頼
かなり厳しいタイミングで当主になったと思います。
本人の正当性はかなり低い状況での就任だったはずです。
国内の統制も難しかったでしょう。
また、時間がたてば織田信長は畿内周辺の敵を掃討して国力差はさらに広がったでしょう。
外交と武力をうまく使い分け、長篠の戦い以降も北条と同盟したり、同盟破綻後は佐竹と同盟して北条相手に成果をだしているので能力は高かったのでしょう。
優秀だったがゆえ、織田信長や上杉謙信は武田勝頼を警戒するようになりました。
超大国織田氏との戦いは困難を極めたでしょう。
武田勝頼は家中の支持を得るために高天神城を攻略し、高天神城を失ったことで家中の支持を失いました。
結果論になりますが、高天神城は遠江だけでなく武田勝頼にとっても生命線の城になりました。

【まとめ】
今回は高天神城の戦略上の立地と歴史的意義を見てきました。
武田・徳川の両者にとっても譲れないことがよくわかる城でした。
次回は実際の高天神城の城としての強さを見ていきます。

-カメビギ

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