長久手古戦場記念館は愛知県長久手市にあります。
小牧・長久手の戦いのうち、もっとも大規模な合戦があったのが長久手の戦いです。
長久手古戦場記念館と実際の古戦場を真夏に巡りました。
今回は長久手の戦いの概要と長久手古戦場記念館の見どころや所要時間について生の情報に基づいて記載します。

※長久手古戦場近くのモニュメント
【小牧・長久手の戦いの概要】
以下に長久手の戦いを中心とした概要をまとめました。少し長いです。
※長久手市観光交流協会HP参考
①小牧・長久手の戦いの背景
1582年に発生した本能寺の変の後、羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を打ち破り、清須会議を経て織田家の実権を掌握します。
さらに翌年には対抗馬であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、あわせて信長の三男であった織田信孝も排除します。
一方、信長の次男であった織田信雄は羽柴家が主家の織田家を大きく超える勢力を持ったことに危機感を覚えます。
1584年、織田信雄が親秀吉派の三家老を粛清したことを契機になり、羽柴秀吉が織田信雄への出兵を決定します。
織田信雄は信長時代からの盟友であった徳川家康に参戦を要請し、羽柴対織田・徳川の戦いになります。
圧倒的な兵力を持つ羽柴軍に対し、織田・徳川連合軍は紀伊の雑賀衆・越中の佐々成政・四国の長宗我部元親などと連携し包囲網を敷いて羽柴軍の戦力分散を狙いました。
また、徳川家康は関東の北条氏と婚姻同盟を結んだことで背後を気にすることなく兵力を尾張・伊勢方面に向けられました。
一方で羽柴軍は旧織田家の家臣団を取り込む他に、同盟国の毛利氏からの支援や徳川方であった木曽義昌が羽柴方に寝返り信濃方面などにまで戦線の影響が広がっています。
お互いがまずは外交によって有利な状況を作ろうと模索していたようです。
②小牧城の利用と戦線膠着
そんな中、美濃を治めていた信長の乳兄弟であった池田勝入(恒興)は秀吉に着きました。
この段階では信雄・家康は主家である織田方に着くだろうと考えていたため、主戦場は伊勢方面になるとと考えていました。
池田勝入は秀吉に着いたことを内外に知らしめるためすばやく信雄領の犬山城を占拠します。
この知らせを清須城で信雄・家康は聞きます。
家康は伊勢方面への出陣を取りやめ、すぐに小牧山に向かいました。
小牧山は信長時代に美濃攻略のため一時期本拠になっていましたが、当時は廃城となっていました。
羽黒の戦いで秀吉軍の突出部隊を叩いた家康は、小牧山城を臨時の防衛拠点として復活させ、砦や土塁でただちに迎撃態勢を構築しています。
その後秀吉本体が小牧山の北にある楽田城に入城し、信雄軍も小牧山に入城し双方のにらみ合いが続きます。
膠着が続き、秀吉軍が打破するため次の手「三河中入(みかわなかいり)」作戦を実行します。
③三河中入
羽柴軍は圧倒的な兵力を有しており、通常の野戦では有利です。
しかし家康は小牧山城とその周囲の防衛網を強固に築いており、兵力差をもってしても攻略は困難です。
そのため別動隊を用いて家康の重要拠点である岡崎城を攻撃する作戦を立案しました。
岡崎防衛のために小牧山からでれば秀吉本隊が小牧山城を攻略、でなければ別動隊がそのまま岡崎を奇襲する。
これが「三河中入」です。
別動隊は三好(のちの豊臣)秀次を総大将にし、堀秀政、池田勝入、森長可の各部隊の総兵力は2万程度で岡崎城に向かって進発しました。(各部隊数は資料によって多少異なります)
④長久手の戦い
「三河中入」に気づいた信雄・家康は本田忠勝を小牧山城に残して別働隊を追いかけます。
別動隊で先発していた池田勝入・森長可は岩崎城で戦闘になり岩崎城を壊滅させるものの時間が取られます。
一方、後詰として後発していた三好秀次は白山林で休憩中に徳川軍の榊原康政・大須賀康高らの奇襲を受け総崩れになります。
余勢に勝って堀秀政隊にも攻撃を仕掛けるも、堀秀政隊は桧ヶ根で待ち受け榊原康政ら徳川軍を敗走させます。
しかしこの間に徳川本体は富士ヶ根に陣取り、金扇の馬印を立てました。
これにより堀秀政は戦術上の不利を悟り撤退しました。
退路が断たれた池田勝入・森長可は引き返して仏ヶ根で陣を敷き、同じく陣を敷いていた織田・徳川軍と激突します。
当初は一進一退でしたが森長可が鉄砲隊に撃たれて戦死してからは流れが一変し、池田勝入と長男の元助も討たれて織田・徳川軍の大勝で終わります。
秀吉本隊は救援に龍泉寺城まで駆け付けますが、家康は素早く小幡城を経由して小牧山城まで撤退しました。

⑤その後
局地戦では秀吉は敗北しましたが、戦略的には秀吉が圧倒的に有利でした。
その後主戦場は西部に移り、信雄領地の伊賀や伊勢で秀吉軍が圧迫します。
そのため信雄は秀吉と多くの領地を失いながら単独講和します。
これにより家康は秀吉と戦う大義名分を失い、尾張から撤兵します。
最大の抵抗勢力を失った秀吉包囲網は各個撃破され、四国征伐中の1585年に秀吉は関白に就任します。
そして翌1586年には太政大臣として豊臣秀吉と姓を改めます。
徳川家康は豊臣秀吉に臣従し、以後秀吉の天下統一事業に従っていくことになります。
【長久手古戦場記念館】
長久手古戦場記念館は長久手市古戦場公園にある博物館です。
2026年4月にオープンしたばかりで、長久手の戦いを中心に展示されています。
私が行った時には真夏のためか団扇がプレゼントされました。

※長久手古戦場記念館入口

※配布団扇
駐車場も長久手古戦場記念館にあり、また近くの古戦場公園にもあります。
電車のアクセスも良好で長久手古戦場駅から5分ほどです。
【展示内容】
長久手の戦いが展示内容になっています。
展示はコンパクトであり、しっかり見ましたが1時間ほどででした。
シアターやタッチパネルなどの映像が比較的多いため、体感型施設がコンセプトの一部ではないかと思います。
シアターは3面に映されるため、後方の席に座るのがおススメです。
合戦のわかりやすさを重視しているように感じました。
火縄銃の重量体験や的当てゲーム、クイズや衣装撮影などもあり、短い時間でも子供が飽きずに楽しめる施設になっています。
森長可に由来してか、心なしか火縄銃関連の展示が多い気がします。
個人的には長久手合戦図屛風(びょうぶ)(六曲一隻)の復元模写の製作方法の話がより楽しめました。
長久手市から委託されて愛知県立芸術大学が実際に屏風を作っていますが
- どのように模写するのか
- 原材料をどうするのか
- 原本との違いをどうするのか
など、多くの点で苦労したことがわかりました。
基本的には「原本(オリジナル)が正」とされると思いますが、
あえて今回の復元模写の意味を追求し、原本との違いを一部で行っていく。
非常に勇気のいる決断の連続だったのではないかと思いました。
4年の歳月をかけて製作されたそうですが、解説動画を見てから屏風を見るとまた違った感情を抱きました。
※原本は徳川美術館所蔵
【無料エリア】
1階の無料エリアはクーリングシェルターになっていました。
小さいですがミュージアムショップもあり、灼熱の屋外とは異なった快適空間です。
関連文庫もいくつか置いてあったので、時間がある時は涼みながら楽しむことができそうでした。
【最後に】
長久手古戦場記念館はコンパクトな施設で分かりやすく長久手の戦いが学べます。
そして、実際に古戦場を歩く前に立ち寄ると実際の土地の起伏などを含めてより深く楽しむことができます。
また、長久手の戦い関連のマップもおいてあり、わかりやすく古戦場を巡ることができます。
次回は、実際に古戦場を歩いてみた様子を報告します。
ーカメビギ

