前回は高天神城の戦略上の立地と歴史を中心に見てきました。
今回は実際に登って感じた高天神城について述べていきます。
【高天神城の登城ルートと各曲輪】
・東峰
高天神城は南口と北口に訪問者用の駐車場があります。
今回私は南口駐車場を使用しました。
掛川市のHPを参考にしました。

※高天神城跡案内図
駐車場から登るとすぐになかなかの急斜面です。
すぐに息が切れてしまいます。

※急斜面の階段
最初に追手門跡があります。
北口駐車場の方は搦手となっているため、南口からの登城がメインルートだったのでしょう。
追手門の礎石が一部残っています。

※追手門の礎石(看板左)
つづいて三の丸があります。
ここは土塁が築かれており、追手門から登ってくる道に対し高所から攻撃できるようになっています。
高低差を活かした構造になっています。

※三の丸

※三の丸の土塁から登山道を見下ろす
そのまま登っていくと本丸があります。
本丸は御前曲輪とつながっており、建物も多く建っていたとされます。
武田勝頼が高天神城を攻略したときは、本丸は本曲輪と呼ばれていたといわれています。
東は川が流れており、水軍とも連携できていたようです。

※高天神城本丸石碑

※本丸の風景(右上に雨水の貯水タンクが見える)

※御前曲輪から東の見晴らし(写真中央の茶畑と上側の民家との境目に下小笠川が流れる)
本丸から西に行くと的場曲輪があります。
ここは弓矢等の練習場とされています。
また、発掘調査で砂利が敷き詰められていることがわかっています。
重量物の置き場か鉄砲用の弾薬置き場として利用されていたとされています。

※的場曲輪
的場曲輪経由で、本丸の北側にいくと大河内政局(おおこうちまさもと)石窟があります。
武田勝頼が高天神城を攻略した際、寛大な処置をとり多くを家臣に取り立てたとされます。
しかし、徳川の軍監(ぐんかん)であった大河内政局は武田に降ることを良しとせず、この石窟に幽閉されたとされます。
その8年後、徳川家康が高天神城を奪還した際に救出されました。
城内で生き残っていたのは大河内政局だけだったと伝わります。
救出時では足が不自由になっており、歩行が困難になっていました。
黒田官兵衛と同じく、長期間の幽閉は栄養や日光不足で体に影響が出やすいようです。
徳川家康はその忠節をねぎらったとされます。
その後、大河内政局は出家しましたが、小牧長久手に参陣し討ち死にしています。
実際に牢の前に立つとそのサイズ感の小ささに驚きます。
今は木で蓋がされているので中はのぞけませんが、この牢の中で8年近く過ごすことは想像が追いつきませんでした。

※大河内政局石窟
・西峰
さらに西峰に向かうと複数の曲輪が存在します。
元々は断崖絶壁の東峰を中心に利用されていたと考えられますが、
高天神城を攻略した武田勝頼は、穏やかな西側を弱点と考え大改修を行ったとされます。

※高天神城関連図
南西に進むと西の丸と高天神社があり、その先には馬場平があります。
間には堀切があり高低差をしっかりと作っています。
馬場平には見張番所があったとされ、南方の見晴らしが良いです。
徳川家康が作った横須賀城の方面が良く見えます。

※高天神社の階段

※高天神社と馬場平との間の堀切

※馬場平

※馬場平から南西を見る
馬場平から西に甚五郎抜け道があります。
落城時、軍監であった武田の重臣の横田甚五郎尹松は本国への報告のため高天神城西の尾根を通って馬で脱出し、信州経由で武田勝頼に報告したとされます。
私が行ったときは工事中であり、立入禁止でした。
今度は別の機会に歩いてみたいです。

※甚五郎抜け道
西の丸の北側には二の丸があり、ここから建物の礎石が複数見つかっています。
発掘調査では火災の跡があり、徳川家康が制圧後に城に火を放ったとの伝承を裏付けるものとされています。
また、瀬戸焼や美濃焼など国内外の陶磁器が見つかっているため、二の丸は城兵の生活の場としての機能もあったとされます。
西の丸との間にはかな井戸もあり、水はここから供給されていたようです。

※二の丸

※かな井戸
近くには袖曲輪があり、堂の尾曲輪と井楼曲輪が北へと続きます。

※袖曲輪

※堂の尾曲輪
武田勝頼の高天神城攻略の際、二の丸の守将の本間氏清が300騎を率いて防衛戦を行っています。
この時穴山梅雪の部下の西島七郎右ェ門は物見櫓に上っていた本間氏清を狙撃し死亡させています。
その後本間氏清の弟の丸尾義清が代わって櫓で指揮を執りましたが、狙撃され即死しています。
近くに兄弟討ち死にの地として墓があります。
最終的に二の丸陥落後の4日後に降伏するため、徳川援軍が来るまでギリギリまで粘ったものの駄目だったと考えられます。
井楼曲輪には見張櫓があったとされ、火縄銃の鉄砲玉が発掘されたりしています。

※本間・丸尾兄弟の墓

※井楼曲輪
各曲輪の間には堀切が築かれ、尾根伝いの攻撃を遮断しています。
そして特徴的な部分は、南北に延びる曲輪に平行し、西側に長く作られた横堀です。
100mも続く横堀はその両側に土塁を作ることで、敵は横堀を攻め道として使わざるを得なくなります。
特に曲輪との高低差はしっかりあり、曲輪の城兵は上から一方的に攻撃できます。
武田勝頼が攻めたタイミングではどの程度整備されていたかわかりませんが、二の丸を攻略した実績からなだらかな西側が弱点だと認識していたのでしょう。
横堀や土塁、堀切といった高低差を意識して準備することで防衛力をかなり高めたと思われます。
結果、徳川家康は攻城を望まず、最終的に兵糧攻めで決着をつけます。

※堂の尾曲輪の堀切を上から見る

※堂の尾曲輪の堀切を横から見る

※100m続く横堀(左上は曲輪、右は土塁)
【考察】
①ハード面での堅固さと運用面での脆弱さ
高天神城は北・東・南を急斜面になっており、非常に要害となっています。
一方で西側だけは比較的傾斜が緩やかであり、弱点になっていたようです。
おそらく武田勝頼が攻略する際は西側からかけた圧力は強かったでしょうし、同時に馬場平から南西が見えるため、浜松の徳川援軍が来ていないことも城兵からは見えていたことでしょう。
その後徳川家康が攻略する際には、現状と同じように巨大な横堀や堀切といった高低差を活かした防衛戦術
があったと考えられます。
それだけ武田としても高天神城を重視しており、防衛面での工夫が見て取れます。
徳川も力攻めでは攻略が困難と考えたのか、横須賀城を築城し、周囲に六砦を配置し兵糧攻めにしました。
結果としては、兵糧攻めにより高天神城は降伏を申し出るも受け入れられず、城兵は高天神城から打って出て戦死します。
防衛面で非常に強かった高天神城ですが、最後は城から出陣せざるを得ない状況に追い込まれました。
②落城理由
直接の落城理由は兵糧攻め起因ですが、武田勝頼が補給や防衛支援をできなかったことが影響しています。
陸路・水路での補給は幾度と行われましたが、徳川の妨害に会い失敗に終わっています。
補給部隊ではどうしようもない状態に陥っていたようです。
残された手は武田勝頼本体が後詰として出陣し補給することでした。
1580年に織田信長は石山本願寺と和睦し、畿内での反抗勢力はほとんど一掃できました。
これにより織田信長は国境沿いの各方面軍を維持しつつも、直轄の軍隊を畿内に維持する必要がなくなりました。
必要となれば機動的に徳川家康の支援に移れるようになったわけです。
武田勝頼は織田信長との和平を願っていましたが、もはや織田信長にはその理由がなくなっていました。
交渉するように見せかけて時間を稼いで高天神城を落城させれば、武田勝頼の威信は失墜します。
軍事力で救援しようとした場合も、織田信長が出てきた場合は兵数差が圧倒的なため武田は敗北するでしょう。
外交面も朝廷は織田信長と良好な関係であり、室町幕府も事実上滅んでいたため権威による仲介も困難でした。
ほとんど、この場合は詰みに近い状況だったと考えられます。
こうして1581年に高天神城は落城します。
戦略面で、織田信長に武田勝頼は負けていたと言えます。
【最後に】
高天神城は確かに遠江の要所であり、堅城でした。
知恵と工夫で城機能を極限まで高めたのが武田勝頼であり、城として機能しなくなるよう前提条件を変えたのが織田信長と徳川家康でした。
どのような強力な城でも、適切に使用できなければ落城する。
そのことを教えてくれる戦国らしい城でした。
-カメビギ
