前回は小牧・長久手の戦いの経緯と長久手古戦場記念館について紹介しました。
今回は真夏に古戦場周辺を巡った内容を紹介します。
【地形について】
今回は古戦場公園から御旗山の間を歩きました。
古戦場公園は北側が戦いの名前になった仏ヶ根となっています。
また、公園の北西の御旗山に一時的に徳川家康が陣取っています。
国土地理院のマップを参考・追記して長久手古戦場駅から御旗山までの高低差を見ていきます。

※高低差の確認エリア(マップの始終直線)

※長久手古戦場駅から御旗山までの高低差(標高ベース)
あくまで現在の地形ですが、古戦場公園から御旗山直前まで標高70m程度の比較的フラットな高台が続いています。
このエリアは住宅街が広がっており、周囲より高いため水はけがよくなっています。
長久手の「久手」は「湫」を万葉仮名で読み表したものだそうです。
「湫」は湿地を表すため、長久手は古くから湿地帯が多いエリアだったようです。
1kmも離れていない狭いで大規模な合戦があったため、かなりの乱戦になったのではないでしょうか。
ここからは古戦場公園から順にみていきます。
【古戦場公園】
大きな戦闘となった仏ヶ根の戦いの主戦場です。
現在は長久手古戦場記念館と古戦場公園になっています。
長久手古戦場記念館の資料によると、兵力的にはほとんど同数の9300対9000の戦いだったようです。
古戦場公園の南方に秀吉軍の森長可と池田勝入・池田元助(池田勝入の嫡男)が陣を敷いたようです。
(現在の愛知高速交通東部丘陵線の南側)

※古戦場公園
古戦場公園の東にあるイオンモール長久手の駐車場から古戦場公園を眺めると、おおよそ有名な長久手合戦図の画角になるそうです。

※古戦場公園から見たイオンモール長久手(建物の上は古戦場公園の高所より高い)
また、古戦場公園には長久手古戦場記念館以外に次の3つがあります。
①勝入塚(しょうにゅうづか)
池田勝入の戦死の地と伝わります。
森長可が討たれてから戦場の流れは徳川方に傾き、池田勝入は奮戦むなしく討たれたとされます。

※勝入塚
②庄九郎塚(しょうくろうづか)
池田元助の戦死の地と伝わります。
別動隊を率いていたため、父の池田勝入の危機を見て助けに向かうも間に合わず、元助自身も討たれたとされます。

※庄九郎塚
③長久手市ふるさと館(工事中)
古戦場公園の西で工事です。
歴史民俗資料館等として使用される予定で、令和9年度に開館予定です。
詳しくは長久手市HPをご覧ください。

※長久手市ふるさと館
特に勝入塚から北側周辺は仏ヶ根と呼ばれており、井伊直政隊が布陣していたとされます。
池田隊の攻勢により一度は後退しますが、最後は徳川本隊が攻勢により池田勝入本隊を撃破します。

※古戦場公園から血の池公園へ向かう道
古戦場公園から西に向かうと血の池公園方向になりますが、概ねフラットな地形で住宅街が続きます。
【武蔵塚】
古戦場公園から西に数百m行った場所に武蔵塚があります。
鬼武蔵の異名を持つ森長可の戦死の場所と伝わります。
長久手合戦ガイドの戦闘のタイムテーブルによると、
池田隊が古戦場公園周辺で井伊隊を圧迫したため、家康は御旗山(富士ヶ根)の兵2000を井伊隊の救援にまわしたとあります。
この時家康は御旗山から南西に数百mほどの前山(血の池公園周辺)に本陣を敷いていたため、後方の予備兵力の多くを使ったと考えられます。
この点において、南の喜婦嶽に陣を敷いていた森長可は、西の御旗山あたりから東へ向かって徳川の救援部隊が動くのを確認できたのでしょう。
家康の本陣が手薄になったことを好機と捉え、急襲したと考えられます。
結果として、森長可は家康の本陣まであと数百mの地点で眉間を撃ち抜かれ戦死します。

※武蔵塚

※古戦場通りからは大きな看板がある(武蔵塚に行くためには裏の住宅街を通る必要あり)
【血の池公園】
先ほどの武蔵塚からは数百mほど西に行くと、血の池公園周辺で前山と呼ばれるエリアにつきます。
前山に家康の本陣があったとされます。
一方で血の池公園に隣接する交通児童遊園には鎧掛けの松があり、周囲は池田隊陣地だったとも伝えられています。
池田隊の片桐半右衛門勝忠(かたぎりはんえもんただかつ)が鎧を掛けたとも、徳川家康が掛けたとも伝わります。
浜松城でも三方ヶ原の戦い時の鎧掛松があったため、もしかすると徳川家康は松に鎧掛けすることが多かったのかもしれません。

※鎧掛けの松の説明

※鎧掛けの松(五代目、写真左)
血の池は長久手の戦いの時、諸軍勢が手で水をすくって飲んだといわれています。
また、血に染まった刀ややりを洗ったともいわれています。
昔は四月九日(合戦の日)ごろに池の水が赤く変わり、血の池と称されていたそうですが現在は埋め立てられ公園となっています。
隣の交通児童遊園から急に下がるため、水が集まりやすい地形になっていると感じます。
かつてはすぐ西に長久手城があったため、東の守りとしても血の池は想定されていたそうです。
長久手城主だった加藤太郎右衛門忠景は合戦当日の岩崎城の戦いで徳川方として討ち死にしています。
家康がこの周辺に本陣を敷いていた場合、長久手城の防衛設備を一部転用した可能性がありますね。

※血の池公園(奥が交通児童遊園に続く階段)
※血の池公園周辺マップ
【御旗山】
家康が金扇を立てたとされる山です。
元々は三好秀次を先発隊で急襲しているときに、色金山に本隊は布陣して軍議を開いたとされます。
その後、先発隊が桧ヶ根で堀秀政の攻撃により敗走したため、堀隊へのけん制として御旗山に陣を移します。
堀秀政は御旗山の金扇を見て撤退したとされます。
この時堀秀政は南方の岩崎城から長久手に戻ってきている最中の、森・池田隊の援軍要請を受けていたようです。
しかし、
- 家康本隊に比べ堀隊の兵数が元々劣っていたこと
- 御旗山のような高所をとられ地の利がないこと
- 白山林で敗北した総大将の三好秀次を犬山城まで安全に撤退できる状態になったこと
などが理由でしょうか、戦場にとどまらずに撤退しています。
結果的に家康が御旗山まで出てきたことで、徳川先発隊はそれ以上堀隊の追撃を受けずに済みました。
また堀隊が撤退したことで兵数的には五分五分の戦いをこの後の仏ヶ根の戦いでできるようになりました。

※御旗山の入り口

※御旗山山頂の石碑と看板

※御旗山中腹からの景色(写真中央に古戦場公園の木々、写真左に白いイオンモール長久手が見える)
地形的には御旗山は周囲よりも標高が20m以上高く、見晴らしが非常に良いです。
西の桧ヶ根方面の堀隊へのけん制だけでなく、この後に発生する仏ヶ根の戦いでも池田・森隊の動きや戦場の様子がつかみやすかったと思います。
現在は神社があります。
【家康についての考察】
徳川家康は非常に厳しい状況ですばやく決断し、機動力を存分に活かしています。
かなり最適の行動をしたのではないでしょうか。
①小牧山を先に抑えた
前回の小牧・長久手の戦いの概要にも書きましたが、犬山城が落ちてからすぐに徳川家康は清須城から小牧山に入っています。
さらに羽黒の戦いで秀吉軍に打撃を与えたため、小牧山城の再築城する時間が稼げました。
もし小牧山が秀吉軍に抑えられていたら、尾張北部が秀吉方になり、信雄と家康は領地の接続を分断されていた恐れがあります。
また、本格的に濃尾平野に進出されると兵力でまさる秀吉軍に対処する方法が非常に厳しくなります。
兵力分散すれば各個撃破されるだけなので、小牧山城のおかげで秀吉の大軍を引き付けることができました。
②小牧山城脱出からの白山林の戦い
三河中入部隊を迎撃するため、家康は小牧山城を夜に出陣します。
以下の点がポイントだと考えられます。
- 横堀底を使って、万単位の兵を秀吉方に気づかれずに小牧山城から脱出したと考えられること
- 三好秀次の進軍が遅かったのは家康をつり出すためではないかと考えられること
※千田 嘉博/平山 優/鮎川 哲也 構成(2024).『戦国時代を変えた合戦と城』.朝日新聞出版 参考
家康は合戦前日の夜に出陣して、次の日の早朝には白山林の戦いで食事中の三好隊を攻撃しています。
つまり、秀吉軍が小牧山城からの出陣を認識する前に三好隊と交戦しています。
元々三好隊は家康軍が出てきた場合、勝つことではなく時間を稼ぐことを想定していたのでしょう。
兵力は中入り部隊の中で最も多く、最後方にいました。
継戦中に先鋒の池田・森隊や堀隊が駆けつけてくれるでしょうし、後方からは秀吉本隊も来てくれるでしょう。
ただし、それは小牧山城から家康が出陣したと知らせが来たときに臨戦態勢をとろうとしていたのでしょう。
前方には先鋒部隊がおり、後方には連絡をくれる秀吉本隊がいます。
実質的に敵がいない状態と考えて緩んでいたとしても仕方がなかったと思われます。
ちなみに小牧山城からの距離は小幡城を経由して約20kmです。
夜間を中心の移動としては距離が長いですが、岩崎城主の丹羽氏次が小牧山から道案内をしたからか問題なく行えたようです。
※小牧山城から白山林古戦場の距離
三好隊を各個撃破の形で駆逐したことで、中入り部隊との戦いが戦力差が縮まりました。
③効果的な判断と機動的攻撃
先に述べましたが、桧ヶ根の戦いでは堀隊に先発隊が敗北しています。
知らせを聞きすぐに御旗山に布陣し、被害を最小限に抑えてます。
また、堀隊が優秀だったからか撤退しました。
家康としては堀隊が戦場に残っていた場合、御旗山付近で二方向から挟撃されるリスクがありました。
また、時間がかかれば秀吉本隊が「援軍に来る」か「小牧山城を攻撃する」ことは明らかだったため、短期決戦が必要でした。
結果的に池田・森隊は敵地での孤立を嫌ったか、友軍の敗残兵支援のためかわかりませんが、仏ヶ根南方に布陣します。
こうして家康は合戦で中入り部隊を壊滅させ、秀吉本隊が来る前に撤退しました。
このように家康は圧倒的不利な状況にも関わらず、大きな戦果をあげ小牧山城に帰城します。
ほとんど全軍で小牧城から出撃し、中入り部隊の方が兵力が多く、秀吉本軍がどのようにも動ける状況でした。
その中で戦場で有利な場所を陣取り、必要に応じて移動し、森長可を打ち取ったことで五分五分だった合戦に大勝利します。
この後も、小牧・長久手の戦いを通して家康は機動的な攻勢をかけつづけています。
非常に優れた指揮官だったのではないでしょうか。
【池田・森隊についての考察】
池田・森隊はどうだったのでしょうか。
決して大きな間違いがあったわけではないと思います。
池田隊は一時期は押していたぐらいですから、戦力や士気が負けていたわけではあまりないと思います。
結果的には森長可が戦死したことで森隊が壊滅、敗残兵が池田隊に逃げ込んで士気も下がったとされています。
森長可は家康の首をとるために家康本陣に攻撃を加えたところを逆に撃たれたとされています。
秀吉の援軍を期待して持久戦をするという考えもあったとは思いますが、
既に戦闘になっていて、この一進一退の合戦の勝敗を決めるような好機が巡ってきました。
(武蔵塚の説明で好機について説明したとおりです)
家康を倒せば、あるいは敗走させれば総崩れ必死です。
そのように考えても仕方なかったのではないでしょうか。
合戦で大将が討たれましたが、それは結果論になります。
森長可の攻撃が成功していれば討たれたのは家康になっていたかもしれません。
大将が戦場に出ている以上、大名レベルでも打ち取られる可能性はあります。
池田・森隊の判断は、戦場の状況から見れば十分合理的だったとも言えるのではないでしょうか。
【今回の疑問】
一方で、池田・森隊は本当に合戦を行う必要があったのかは疑問が残ります。
岩崎城落城後、三好隊の敗北の報告を聞いて戻ろうとするのはわかります。
しかし戦場についたころにはかなり時間がたっていたはずです。
ここから一戦交える必要があったのかが疑問です。
時間が経てば秀吉本軍が動くため、家康もいつまでも同じ場所に留まれなかったはずです。
敵地での孤立を嫌った?軍事的な観点?政治的な理由?それとも総大将が敗北したことの仇討ち?
いくつか理由は考えられますが、家康が陣を敷いて待っている戦場にわざわざ出て行って戦ったのはなぜでしょうか?
前方で相手が合戦準備をしていたことを知った場合、途中で前進せず、隘路で街道封鎖なりして持久戦の形も取れたはずです。
おそらく現場では何らかの理由で合戦を選択したのでしょうが、現状では私の疑問として残りました。
【最後に】
長久手古戦場周辺を今回は巡りました。
結果的には家康の大勝利で、その後の名声につながります。
一方で非常に難しい状況が連続していましたが家康は生き抜きました。
勝者にも、敗者にも感じることの多い古戦場です。
ぜひ一度自分の足で現地を感じてみてください。
ーカメビギ

