岩崎城は愛知県日進市にある平山城です。
小牧・長久手の戦いでは岩崎城がその後の戦いに大きな影響を与えました。
岩崎城周辺を巡って、その地形と長久手の戦いへの影響を考えます。
※平山 優(2024).『小牧・長久手合戦』.株式会社KADOKAWA を主に参考
【岩崎城の歴史】
岩崎城は尾張の織田信秀(信長の父)により築城されたとされています。
1529年には三河の松平清康が攻略しますが、まもなく守山崩れによって松平清康が死亡し松平家は大混乱に陥ります。
その後、土豪の丹羽氏清が修繕し、代々丹羽氏の居城となりました。
丹羽氏で内紛があった際は、これを契機に織田信長が軍事介入したとされますが、見事に信長軍を撃退したとされています。(横山の戦い)
その後、丹羽氏は織田信長に従い、本能寺の変後は織田信雄の元で小牧・長久手の戦いに突入します。
※小牧・長久手の戦いの概要はこちらの記事をご覧ください。
関ヶ原の戦いの後、丹羽氏は移動し岩崎城は廃城になります。
【岩崎城の立地】
岩崎城は尾張と三河の境目に位置し、挙母街道、足助街道、明智街道といった主要街道が通っているため、家康にとっても要所となっていたようです。
特に挙母街道は岡崎への主要街道であり、三河中入りでも重要視されたと考えられています。
岩崎城のすぐ北の御岳山(六坊山)にある菊水の滝から南東に向かって菊水川が流れており、岩崎城の東で岩崎川と合流します。
そこから岩崎川は南西方向に流れ、最終的には天白川に合流します。
このことから、岩崎城を中心に北から南へと時計回りに川が流れており、当時としても城の東側は川を防衛ラインとして構築されていたと考えられます。
城自体も高低差があり、防衛力が高かったことがうかがい知れます。
【岩崎城の戦いの始まり】
岩崎城の戦いは三河中入り部隊の池田隊・森隊が藤島まで進軍してきたことから始まります。
今も岩崎川の東側に藤島町という地名が残っており、概ねその周辺を通過しようとしたようです。
ここより数キロ南に進めば境川があり、それが尾張と三河の国境線でした。
当時、岩崎城城主の丹羽氏次は家康支援のため小牧山城にいっており、三河中入り部隊を叩くため先導役として兵300を率いて同行していたため不在でした。
丹羽氏次は弟の丹羽氏重、そして姉婿であった長湫(ながくて)城主の加藤景常に岩崎城を兵300程で守らせたようです。
池田勝入は無視して通過する意図があったようですが、ここで丹羽氏重は大軍である先発の池田隊へ先制攻撃を開始しました。
結果的にこの挑発にのった池田隊・森隊の岩崎城への総攻撃が始まります。
【岩崎城の戦いの終わりと長久手の戦い全体への影響】
戦闘は数時間にわたったとされます。
丹羽氏重や加藤景常、城兵は粘り強く戦い敵を数度城の外に追い出しています。
ただ、最終的に兵数差はいかんともしがたく、城兵は皆討ち死にしたそうです。
この後、池田隊・森隊は岩崎城北の六坊山で休憩をとり首実検をしていたようです。
一方、丹羽氏重は戦闘情報を伝えるため5~6名の使者を小牧山に派遣していたそうです。
しかしそのほとんどがヶ根にいた堀秀政隊に補足され殺害されています。
岩崎城と小牧山の最短に近い経路では中入り部隊の進攻ルート上にあったため、どうしようもなかったのでしょう。
唯一、一族の丹羽平五郎重次だけは小牧山まで平針経由(西に行ってから北に行く)だったため連絡できたようです。
既に家康が進発していたため急いで追いかけ、丹羽氏重に報告したようです。
岩崎城の惨状を知った丹羽氏次隊は士気が高まり、白山林の戦いで徳川先発隊とともに三好秀次を打ち破りました。
三好秀次の敗走を聞き、今度は池田隊・森隊は急ぎ長久手方面へと向かい、この後仏ヶ根で大きな戦いになります。
【岩崎城とその周辺について】
①高低差
実際の岩崎城について見ていきます。
岩崎城は南北に駐車場があるため、車での来城する場合はどちらかに止めると良いでしょう。
どちらにせよ登ります。
特徴的として、まず高低差を活かした防御があります。
北側には大きな土塁があり、高低差のある防衛力を高めています。

※北側土塁(右上にある曲輪に土塁が追加されている)

※土塁(写真中央)を二の丸庭園から見る
城は小山の上にあり、見晴らしのよさと防御の両方を兼ねています。
大きな空堀があり、北側の二の丸と本丸を分けています。
本丸も面積が広く、周囲からの高低差が大きいため攻めにくい構造をしています。

※空堀
②二の丸周辺
過去の発掘調査では、二の丸から大規模な礎石が見つかっていないことから、馬出ではないかと考えられています。
※岩崎城天守の紹介ビデオで岩崎城歴史記念館副館長の内貴健太(ないきけんた)氏が紹介しています
馬出は武田氏が有名ですが、1584年当時の尾張で作られていたことは驚きました。

※空堀の上の橋から馬出(写真奥)を写す
現在は二の丸庭園と呼ばれており、庭園と水琴窟があります。
水琴窟は常滑焼を使った排水システムで、内部のかめに水が落ちるときに反響して妙音を響かせる仕組みです。
江戸時代に考案されたといわれています。

※二の丸庭園

※水琴窟
※水琴窟の音(小さいです)
③本丸
本丸には井戸があり、東側には隅櫓がありました。
北西には櫓台と呼ばれる高台があり、建物があったことが示唆されています。

※井戸跡

※隅櫓礎石

※櫓台にある石碑
また、発掘調査で本丸西側に古墳が見つかっており、昔から周囲に比べ高く注目される場所だったと伺えます。
古代は猿投窯が日本の焼き物の中心だったこともあり、古墳からは土師器や須恵器が見つかっています。

※岩崎城古墳
現在は岩崎城歴史記念館が本丸中央に建っており、南側からの登城口には模擬天守があります。
入城無料で日進市の歴史や岩崎城について詳しく知ることができます。

※岩崎城歴史記念館

※岩崎城模擬天守
④周囲
岩崎城周囲には川があります。
当時と異なるところは多いでしょうが、水位などはあまり変わらないと考えられます。
岩崎川は現在は少し川幅がありますが、それでも増水などしなければ徒歩で渡れそうです。
また、菊水川はさらに川幅が小さく、待ち構える場合では有利でしょうが、人がいないとすぐ渡れるサイズです。

※岩崎川

※菊水川
城の北東に妙仙寺という丹羽氏の菩提寺があり、非戦闘員はそこに逃げ込むよう丹羽氏重が指示したとされます。

※妙仙寺
【考察】
岩崎城の戦いは結果的には長久手の戦いの趨勢に大きく影響しました。
大名レベルを打ち取り、織田・徳川連合軍の被害は秀吉軍に比べて非常に軽微でした。
岩崎城の戦いについて考えていきます。
①岩崎城の戦いは城側から仕掛けた
当時池田隊・森隊は合わせて万単位の軍勢でした。
一方、岩崎城は300人しかいません。
確かに河川や城の防衛力の高さを活かせば一定時間の防衛戦闘はできるかもしれません。
しかしそれは敵が城を攻めてきたらの場合です。
現に、池田勝入は一度は無視して通過しようとしていました。
城から攻撃があったため、ある意味仕方なく岩崎城の戦いが発生しました。
②なぜ丹羽氏重は積極的に大軍に攻撃を仕掛けたのか
丹羽氏重は兄から城を託されていました。
敵が素通りしてくれるなら、素通りさせることも可能だったはずです。
攻められなければ城は落ちず、相手部隊の後方に位置するため兵站上の障害であり続けます。
一定の効果は維持できたはずです。
最悪戦況が不利になっても秀吉方へ降伏できる可能性すらあります。
この時点では目の前に敵を発見した段階で、当然家康が小牧山から出陣したことも知りません。
援軍が直ちに来なければ兵力的に全滅は免れません。
なぜこちらから戦いを挑んだのでしょうか?
岩崎城の戦いは夜明け過ぎに始まったようです。
可能性としては以下の二つが考えられます。
- 援軍が来るまで持ちこたえる自信があった
- 当初から玉砕をある程度想定
大軍相手でも援軍が来るまで持ちこたえられた事例はあります。
楠木正成は千早城で鎌倉幕府軍に勝っています。
長篠城は武田勝頼を相手に500人で持ちこたえました。
ただし、いずれも天然の要害をうまく利用した結果です。
防衛側が有利ではありますが、岩崎城の地の利はそこまでではありません。
夜明けすぐの戦闘だったこともあり、物見で確認できた敵兵力が実際より少なかったのかもしれません。
時間稼ぎを目的としていたとされていますが、その目的は戦略上(長久手の戦い全体への影響)も戦術上(援軍が来るまで耐える)もどちらも成り立ちそうです。
ただし、他の選択肢もある状態で城兵全員が討ち死にするまで戦うのは異常だと感じます。
彼らは何を守りたくて積極的な攻勢をしたのでしょうか。
結局はわかりませんが、相当な覚悟をもって大軍へ攻撃を仕掛けたと考えられます。
③岩崎城の戦いの意義
岩崎城の戦いを徳川家康は称賛したとされます。
結果的には非常に重要な戦いになっています。
- 岩崎城を通過されると複数ルートで岡崎が目指せること
- 三河中入り実行前に叩けたため、三河での動揺がなかったこと
- 岩崎城の戦いで池田隊・森隊を疲弊させたうえ、長久手までさらに進軍させて、有利な地形で合戦を行えたこと
- 長久手で戦えたため、秀吉の援軍が来る前に小牧山への帰還を速やかに行えたこと
など複数の点で非常に織田・徳川連合軍のメリットになっています。
秀吉もこれ以降の主戦場を西に移します。
大きなターニングポイントになったことでしょう。
【長久手の戦いの逸話】
長久手の戦いでは逸話が現在も残っています。
長久手町史によると
・猿投神社
逃げてくる敗走者を猿投神社(豊田市)に入れないように家康方が通達しています。
神社での殺生が禁止のため、秀吉方の敗残兵を神社に入れるなという意図のようです。
・菱野のおでくさん
池田勝入の配下だった梶田甚五郎という武者が菱野村(瀬戸市)で打ち殺されました。
その後、菱野村では不作や疫病が流行ったことで梶田甚五郎の祟りとされました。
そしてその姿をきれいな人形でつくり猿投神社に奉納するようになると豊作が続くようになったとされます。
・五軒島の幟(のぼり)
瀬戸市の深川神社近くにある五軒島という地区では五月節供(端午の節句)では幟をあげないとされている。
過去に幟で落ち武者を打ち殺した祟りを恐れてのこと。
このように現地では長久手の戦いの伝承がいくつか残っています。
一方、江戸時代には長久手古戦場が観光の目玉になっており、現在で言う聖地巡礼のガイドブックまで販売されていたようです。(長久手古戦場記念館で展示されていました)
【まとめ】
今回は岩崎城について見てきました。
実際のところ、岩崎城での戦いが長久手の戦い全体へ大きな影響を与えています。
江戸時代の頼山陽は『日本外史』で次のように評しています。
「家康の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。 関ケ原にあらずして小牧にあり。」
岩崎城が小牧・長久手の戦いに与えた影響はどれぐらいあったのでしょうか。
ぜひ岩崎城で自分なりの体験を感じてみてください。
ーカメビギ

